平たい紙の束を、そっと開きます。120枚のグラシン紙が蜂の巣の構造になって立ち上がり、一脚の椅子になる。吉岡徳仁の《Honey-pop》の最後の形は、図面にはありません。座った人の体が決めます。ニューヨーク近代美術館やポンピドゥー・センターに収蔵されたこの椅子を手に入れた人は、最初に座るかどうかを決めなければなりません。座れば完成し、同時に、もう元には戻らない。家具を集めるとは、この種の判断を引き受けることです。
署名を求めた収集家
1912年6月、パリのクチュリエ、ジャック・ドゥーセは、集めてきた18世紀の家具や美術品を競売で手放しました。向かった先は同時代の若い作り手です。アイルランド出身のアイリーン・グレイの漆の屏風《ル・デスタン》には「Gray 1914」の署名があります。入れさせたのはドゥーセでした。グレイの署名入りの作品は多くありません。作り手が記さなかった名前を、持ち主が記させたのです。
ドゥーセはやがて、パリ郊外ヌイイの邸宅を同時代の作り手の家具で満たしました。1924年に手に入れたピカソの《アヴィニョンの娘たち》の額縁は、デザイナーのピエール・ルグランの手によるものです。絵と家具は別々の収集品ではなく、ひとつの暮らしの部品でした。ドゥーセは物を買ったというより、自分がどの時代に生きるかを選んだように見えます。
絵は眺められて残り、椅子は座られて減っていく
署名、来歴、保存。ここまでは美術品の収集と同じです。決定的に違うのは、家具が使われるためにつくられていることです。ガエターノ・ペッシェが1969年に発表したUPシリーズの、巨大な足の形をした《UP7》は、2004年にヴィトラ・デザイン・ミュージアムで開かれた合成素材の保存の研究集会で、ポリウレタンの老化と損傷の事例として扱われました。座るための柔らかさそのものが、時間とともに失われていく素材です。
絵の持ち主は、見るたびに絵を傷めることはありません。椅子の持ち主は、座るたびに使うか残すかを選びます。その重さは、そのまま喜びでもあります。形を目で知るだけでなく、背中で知ることができるからです。
役所の椅子が、作品になるまで
希少性もまた、物の中にあるとは限りません。インドの都市チャンディーガルでは、1950年代からピエール・ジャンヌレらが官庁や大学のために椅子や机を設計しました。数を限ってつくられたものではなく、役所の備品です。多くは傷み、廃品置き場にも送られました。現地の活動家の証言によれば、1999年ごろからフランスの画商がこれらを集め始め、やがて世界の競売に姿を現します。
美術家エイミー・シーゲルの映像作品《Provenance》(2013年)は、この道のりを逆にたどります。語りも人物も登場しません。収集家の部屋から競売の下見会、修復の作業場、貨物船へとさかのぼり、チャンディーガルに行き着く。同じ木と籐のまま、備品が作品へ移っていく過程が映ります。現地には、町の遺産が持ち去られたと感じる人たちもいます。誰の手にあるのかという問いは、家具の収集から切り離せません。
完成の前から、関わる
絵画のギャラリーが多くの場合できあがった作品を預かるのに対し、デザインのギャラリーは制作の手前にいることがあります。パリのクレオは1999年に開かれ、翌年からデザイナーに委嘱した作品を世に出し始めました。創業者夫妻はそこを実験室と呼んでいます。一点物や限定生産の作品の背景には、まだ評価の定まらないものに時間を預ける人たちがいます。
買ったあとも、作品は完成しません。ミラノのニルファーが買い取ったマルティーノ・ガンパーの100脚の椅子は、美術館へ移る前の2026年6月の集まりで、ガンパー自身が修復を行うと告知されました。
家族の人数分の皿
日本には、もうひとつの収集の形があります。椅子研究家の織田憲嗣は、北欧を中心に50年以上にわたって椅子や日用品を集めてきました。全体で約3万8千点に及ぶとされ、2017年に椅子のコレクションは北海道の東川町の公有となりました。
このコレクションの研究には、印象的な一節があります。織田は生活で使えることを重視し、食器はできるだけシリーズ一式で、家族の人数分をそろえることを意識していたというのです。一点の名品ではなく、食卓が成り立つだけの数を集める。
ドゥーセは邸宅を建て、織田は皿を家族の数だけそろえました。規模も時代も違いますが、二人は同じことをしています。物に合わせて、自分の暮らしを組み替えたのです。紙の椅子に最初に腰を下ろす人も同じです。形が変わることを知りながら、それでも座る。収集とは、物を保管することより、物に変えられることを選ぶ行為なのかもしれません。この分野の全体像はコレクティブルデザインとは何かにまとめています。