ミラノの北の町リッソーネに、天窓から光の落ちる木工所がありました。主は家具職人のレンツォ・ブルゴラ。周囲の壁で屋根を支え、中央を大きく開いたその仕事場を構想したのは、エットレ・ソットサスです。のちに世界の趣味を揺さぶるデザイナーが、自分の図面を形にする職人のために、光の入り方を考えていた。イタリアのデザインを才能や美意識で語る前に、図面と工房の距離を見てみます。
女性の胴体の線を、合板で受け止める
1949年、トリノの建築家カルロ・モッリーノのテーブル《アラベスコ》。曲げた合板に五つの不規則な穴が開き、その上に、輪郭の定まらないガラスが浮いています。ヴィクトリア&アルバート博物館の記録によれば、天板の線は、画家レオノール・フィニの素描から写し取った女性の胴体です。
絵の線を家具の構造に置き換える。その無理を引き受けたのが、トリノの木工会社アペッリ&ヴァレージオでした。モッリーノの家具の多くは、この工房でつくられています。同館の一台は知られている3点のひとつとされ、1950年にはアメリカを巡回した展覧会「イタリー・アット・ワーク」に並びました。
絵画が、扉になる
ミラノ近郊のヴァレードでは、別の出会いがありました。父の家具工房に育ったオズヴァルド・ボルサーニは、ブレラ美術学校でルーチョ・フォンタナと知り合います。1952〜53年の衣装棚の胡桃材と真鍮の本体には、フォンタナが裏から彩色したガラス板がはめ込まれました。絵を家具の上に掛けるのではなく、開け閉めする扉にしたのです。この関係は、ボルサーニが1953年に兄弟と創業したテクノの製品にも続いていきます。
家具の町が、図面を募る
工房の側から手を伸ばすこともありました。1955年9月、家具の町カントゥで国際コンクール「セレッティーヴァ・デル・モービレ」が始まります。審査にはジオ・ポンティ、アルヴァ・アアルト、フィン・ユールらが加わり、最終候補の案は試作品となって町に並びました。紙の上の案が、すぐ隣の職人の手で椅子になる。催しは2年ごとに1975年まで続きました。イタリア高級家具の産地の強さは、腕だけでなく、この速さにもありました。
売れない鏡をつくった工場
1957年、トスカーナのアリアーナで家具会社ポルトロノーヴァを興したセルジョ・カンミッリは、様式家具に満足していませんでした。彫刻家アジェノーレ・ファッブリを介してソットサスに連絡を取り、ソットサスは15年にわたって同社の芸術監督を務めます。1966年に近くのピストイアで開かれた若い建築家たちの展覧会も、カンミッリの助力で実現しました。
1970年、この工場から、波打つ縁がピンク色に灯る鏡《ウルトラフラゴラ》が生まれます。「グレーの家具」のシリーズで、ただひとつ試作の段階を超えた品でした。いまでは同社の代名詞ですが、2023年のインタビューでは、当時は厳しく批判された「大失敗」だったと語られています。
シャベルを手にした建築家たち
1973年1月、ミラノの雑誌『カサベラ』の編集部に、ソットサス、アレッサンドロ・メンディーニ、アンドレア・ブランジ、リッカルド・ダリージらが集まりました。始まったのは「グローバル・ツールズ」。大学に代わる学びの場を、フィレンツェ、ミラノ、ナポリに広げようとする試みです。残された写真の建築家たちは、シャベルや熊手を手にしています。工業製品としてのイタリアデザインが称賛されていた時期に、その中心にいた人たちは手へ戻ろうとしていました。
メンフィスを組み立てた手
1981年、ブルゴラはメンフィスの4人の創立メンバーの一人になります。派手な色の化粧板で世界を驚かせた本棚を前にすると、工房の話は遠く聞こえるかもしれません。しかし、傾いた板を交差させて立たせる棚は、絵に描くのは簡単でも、角度と接合を一つひとつ解く人がいなければ立ちません。
良い趣味への反抗は、良い腕に支えられていました。伝統と実験は対立していたのではなく、同じ作業台の上にあったのです。
重機の工場から、椅子へ
この距離は、いまも形を変えて続いています。イタリア南部レッチェのDA Aは、金属加工の土地に2014年に生まれたブランドです。建設機械のバケットやアームをつくる道具と技能で、家具をつくります。マルク・サドラーがデザインした《ROCK Armchair》は、アルミの管を溶接し、曲げ、仕上げた3本脚の椅子です。国際的なデザイナーの図面を、重機の工場の手が受け止めている。リッソーネの木工所と、構図は同じです。

マルク・サドラーの《ROCK Armchair》(DA A Italia)。建設機械の金属加工の技能から生まれた椅子

座面の凹凸とリベット。工業の仕事が、そのまま椅子の表情になっている
ただし、この関係を美談にはできません。カンミッリとソットサスが去ったあと、ポルトロノーヴァは経営者が替わり、1980年代半ばには存続に苦しみます。売れない鏡を試してくれる工場は、いつでも失われる可能性がありました。
イタリアが家具を芸術に変えてきたのは、特別な精神があったからだけではありません。図面を持ち込める工房がすぐそばにあり、そこに無理を引き受ける人がいた。RIVONTEが作品を選ぶときに確かめたいのも、デザイナーの名前の隣に、どの工房の名前があるのかということです。作品としての家具という考え方はコレクティブルデザインとは何かにまとめています。